今年の採卵と交配、3

2024/03/10

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 今年の採卵と交配の話を書く予定でしたが、色柄の事を付け加えたいので我慢して見て下さい。自分の作成魚に「黒青竜」が有って、この金魚の作出完成時に(赤色を消せた時点)特許庁に名称登録をした事を前回写真でお見せ致しましたが、中国金魚の本の中に「藍透明鱗文魚」と説明の金魚の写真が出てました。この本(お土産の中国金魚鑑賞)の発汗年月日は「2003年8月」と書かれていますので、この「藍透明鱗文魚(日本的に色柄で呼ぶと、青色琉金)は当然それ以前に中国で作出された色柄の金魚と言えます。
所が、日本ではこの色柄の金魚を作出された方がいらっしゃるのです。その方は「小柳 雅弘氏」なのです。その小柳氏は奇しくも私が「黒青竜」作出の為、キャリコ柄の赤色を消す交配を終えた頃、彼もまた、東錦の赤色を消す交配をされていたのです。で、やっと赤色が消え、青色の金魚(透明鱗の浅葱色のオランダタイプ)が出来上がった頃、大和郡山市での金魚品評会場でお会いしたのです。私との会話で、その話を(浅葱色の金魚が出来た事」を、熱く語られていました。写真の名刺はその時の氏から(本人から)頂いたものです。
「天青」と言う金魚は小柳氏が1992年からか、赤色を消す交配を始まられたと書かれ、7年の歳月を掛けたと書かれています。2012年、観賞魚フエア、と金魚日本一大会に出品し世に送り出したとある方の説明です。私の経歴と似た自作の金魚の世に送り出した経緯と思われます。
ひょっとして、名刺交換(名刺交換と言うより、名刺を頂いたと言う方が早い、自分の名刺は当時は現役の名刺でした)の時、「作出金魚を金魚フアンに認知してもらうには、観賞魚フエアか金魚日本一大会に出品する事が金魚フアンに知ってもらう一番早道だ」と言った(助言した)かも知れません。
名刺には「やまと錦魚園」と書かれていますが、将来は金魚に携わる仕事をしたいのでやまと錦魚園で修行していると言っていました。「天青」と言う金魚は「大野 三男」先生の養魚池をお借りして飼育していると言っていた。大野先生とお会いしたのは3回でした。先生はランチュウの審査員もされてその道の大家で有られ、ランチュウの他にもオランダ獅子頭の大家でも有りました。早くから中国金魚にも関心を持たれ、私が最初にお会いした時は
(昭和44年7月頃)当時輸入の3色パール(キャリコ柄)の稚魚の販売もされておられ自分のその稚魚5尾を購入した記憶が有ります。
小柳氏の「天青」が世に出た数年後に、今度は同じ柄のしかも同じ東錦(鈴木東)から「萩雲青」が市場に出始めました。愛好者が何方が何方か迷っています。
「萩雲青」に似ている品種に「天青」が有ると書かれてるブログを見ましたが、間違いです!!。「天青」に似せた「萩雲青」が有るのです。この業界では悪い癖が有るのです!。それは強いもの勝ち!言いたい事が言えるものが強いのです。
此処に書いときますが、小柳氏の「天青」が先です。大人しい若者(私がお会いした時期は二十歳そこそこのお年だったかと思っています。)でした。今はどうなさっていらっしゃるのか?気になって居ます。小柳氏をご存知の方教えて下さい。



👈の写真1
中国金魚鑑賞の本に有る浅葱色の琉金型の金魚です。キャリコ柄の金魚の赤色を消す交配を続けると、この様な色柄の金魚が出ます。黒色の色素が皮膚の下にあると青色に見えるそうなので、この金魚の様な青色同士の交配を続けていると、やがて浅葱色が薄くなりシルクと呼ばれる透明で無色の色の仔が多くなってしまいます。


👈の写真2
浅葱色の金魚が出来たと、熱く語っていた頃の小柳氏、当時は大野先生の養魚池を借りて
繁殖に励んでおられた。



👈の写真3
小柳氏が作出された「天青」の写真だそうです。
※写真をクリックしてご覧下さい。クリックすると写真の中の字が読めますので!。

👈の写真4
大野 三男 先生の名刺です。当時は、奈良県立郡山農業高等学校にお勤めでした。
最後にお会いした時は、やまと錦魚園の品評会でした。重篤な御病気だった様で、会場では出品者は自分の出品魚の金魚評を先生にして頂きたい方が群がって集まり聞いていました。この機会を逃すと一生先生の説明は聞けないぞ!。先生も休み休みの説明でした。先生も自分の体の事はご存知の様で魚の将来の事や飼育の事まで丁寧に指導されていました。多分説明を聞いていた方は先生の弟子の方だったかも知れませんが、先生の説明を聞いて自分の身に着けようとする雰囲気に涙が出ました。

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